☆誕生

すぎやまこういち、本名椙山浩一は1931年4月11日、東京の下谷で、椙山庸吉、蔦子の長男として生まれた。

 

☆祖父

長屋で薬局を開いていた祖父椙山冨史(ふうし)は、明治時代の反権力思想家幸徳秋水がいた新聞“萬朝報(よろずちょうほう)”のスタッフで、日露戦争の時には反戦運動に携わっていた事もあるという。

 

☆音楽好きの原点は祖母

すぎやま氏の最初の音楽との出会いは、三歳頃、祖母椙山カツが毎晩のように英語で歌ってくれた賛美歌で、子守歌になっていたという。祖母は1879年生まれで、女性として初めて学校の教頭まで勤めたという人である。残っている祖母の若い頃の写真には、小脇にヴァイオリンをかかえた姿が写っているという。まさに音楽好きの原点は祖母ということだ。

 

☆最大の愛唱歌

すぎやま氏の四、五歳から小学生へ入学する前後の愛唱歌は、古賀政男作曲「二人は若い」だった。どんなおもちゃよりも、このレコードをかけている時が一番機嫌がよかったという。

 

☆親

父庸吉は東大薬学部を卒業、昭和薬科大の教壇に立ち、1938年、愛知県庁の衛生技官になった。その後、厚生省、薬務局製薬課長になったが「賄賂を受け付けないような実直な男」だったために左遷されるという晩年を送った。ただ、単に"きまじめ"だったわけではない。戦争中に防空壕の中で家族全員でコーラスを楽しむというモダニスト。東大時代には麻雀部に属し、日本麻雀連盟の規約担当理事を務めた。母蔦子は、麻雀クラブに“麻雀ガール”として出入りする女子医大の学生だった。父はマンドリンクラブで活躍もしていて、母はギターとピアノの素養があった。父は開戦にあたって「花札と麻雀牌がなくなる」とまとめ買いしたという、“遊び人”でもあった。すぎやま氏のゲーム好きはその血を引いているに違いないだろう。

 

☆すぎやま氏の小学校時代

すぎやま氏は小学校へ進んでから、おもちゃの卓上ピアノで遊ぶことを嬉しがる、音楽好きの少年になっていた。父親はピアノを買ってやりたいと思ったらしいが、戦争が激しくなり実現はしなかった。しかし、父も母も大の音楽ファンであり、お互い熱中していたという父のマンドリンと母のギターの合奏をたびたびきかされていた。すぎやま氏が歌を歌えるようになると、父親が買ってきた国民歌謡の楽譜で、母親と三人で三部合唱を楽しんだ。それから後、妹も加わり四部合唱にもなった。すぎやま氏は、小学校で学芸会があると、楽譜に強いということで、合唱やハーモニカ合奏の指揮をしていた。楽譜の読み方は母親から教えられ、大方のものは読めるようになっていたのだ。

 

☆中学時代のエピソード

すぎやま氏は千葉県下の千葉一中に入った。そこでの話の一つ。夜中にお寺に行き御札をもらってくるという新入生の肝試し大会があった。誰よりも肝がすわっていたのがすぎやま氏だったという。
「出発前に上級生から怪談めいた話を散々聞かされるんです。でも親父が合理主義精神のかたまりでしたから、お化けも人魂も全く信じてなかったんで、全然怖くなかったんですよ」と当時を語る。

 

☆指揮者にあこがれる

すぎやま氏は中学三年の頃からオーケストラに夢中になる。学校で「将来はオーケストラの指揮者になりたい」と言ってひんしゅくをかった。誰もが"海軍大将"か"陸軍大将"という時代である。

 

☆栄養失調

太平洋戦争の終結は疎開先の岐阜で迎えた。「これで東京に帰れる」と戻った東京は焼け野原だった。椙山家は杉並の荻窪に住んだ。すぎやま氏は動物性蛋白の不足で死にかけたことがある。「清廉潔白な役人の息子は栄養失調にもなるわけです。」と語る。当時最高の“ご馳走”が荻窪駅前のマーケットで売ってた進駐軍の残飯入りの“びっくりシチュー”だった。

 

☆ベートーヴェンが音楽の教科書

終戦後、疎開先から東京へ戻ったすぎやま氏は中学生だった。きびしい物資不足の時代であった。しかし、そんな中で父親が家にあった反物と物々交換で、ベートーヴェンの第一、第六、第七交響曲とクロイツェル・ソナタの四種のSPレコードを手に入れてきた。第六番田園にはスコアまでついていた。すぎやま氏は、中学の三年間、手巻き蓄音機に竹針で、レコードが擦り切れるまでききまくった。竹の針のためバスのパートが再生されず、読み方を自分で勉強して、スコアを見ながら、聞こえてこないバスのパートを自分で歌った。ベートーヴェンのハーモニー進行を理屈でなく体で覚えたのである。

 

☆国語の教科書の詩に曲をつける

すぎやま氏が作曲に興味を持ち始めたのは中学時代である。国語の教科書に出てくる詩にかたっぱしから曲をつけていった。さらに合唱曲にして家で両親に歌わせてみたという。

 

☆高校

「奨学金が一番貰いやすかった」という成蹊学園に入った。1年でコーラスの指揮、2年で音楽部の部長、3年でオーケストラ部を復活、楽器のできないすぎやま氏は指揮者に選ばれた。高校生活最後の文化祭ではジャズコンボをやった。バンマスは当時中学生の服部克久氏。コンボに指揮者は不要ということで困ったすぎやま氏は、ベースを一週間指から血が出るまで練習して参加を許された。大喝采を博したが、文化祭でジャズをやったということで学校からにらまれる。

 

☆制服は着なかった

 

すぎやま氏は高校の3年間制服を着なかった。経済的な理由もあったが、「成蹊には海軍服みたいな蛇腹の制服があるんですが、3年間それを着なかったんですよ。親父も自由主義者でしたから。『制服を着せるのはおかしい』って。親子そろって反対してた」と言う。

 

☆音楽学校をあきらめる

すぎやま氏は高校時代、クラシックからポピュラーまで、実に様々な音楽をきき、作曲、編曲を試み、オーケストラの指揮に取り組むなど、音楽に明け暮れた。そしてもう音楽家になろうと決意していた。しかし、音楽学校の試験には必ずピアノがあり、ピアノのできなかったすぎやま氏は音楽学校をあきらめざるを得なかった。そして父親が公務員ということであとを継ごうと東大に進んだ。しかし決してうれしくなかったという。

 

☆受験

すぎやま氏は受験に苦労した覚えがないと言う。「数学も物理も化学も、謎解きのゲームみたい」だった。東大の受験の前日も麻雀をしていたという。

 

☆表彰されず

すぎやま氏が東大へ合格した年は、成蹊学園からは6人だった。旧制だった前年までは80人前後だったのが大激減した年。6人の内、5人は卒業時に優等生の賞状が出た。すぎやま氏だけが対象外だった。「問題児だったんでしょうね」と語る。

 

☆大学入学

東大での自己紹介は「僕はアプリゲールです」だった。昨日まで陸軍将校になりたいと言ってた人間が続々共産党に入党する時代である。「当然浮いてたでしょう」と言う。

 

☆迷子の青虫さん

東大では音楽活動をしていないすぎやま氏。高校の音楽部の指導が主だった。ある時、近所に住んでいるバレエの谷桃子門下生に、バレエ教室の発表会に創作ものをやりたいということで、作曲を依頼される。そして30分ほどのピアノバレエ組曲を書いた。発表会は無事終わり、謝礼だと言って5000円をもらい驚く。すぎやま氏が初めてお金を貰った作曲であった。

 

☆文化放送へ入社

大学時代も後半になったすぎやま氏は、父のあとを継ごうという気持ちは全くなく、どうしても音楽をやりたいという気持ちになっていた。現場で音楽の勉強ができるということで就職先を放送局に決める。そして文化放送へ入ったすぎやま氏は最初、音楽番組をやれる期待とは反対に、報道部に配属された。それでも、録音構成などを編集する時のBGMのレコードの選別は楽しかったという。一年半後、やっと芸能部へ移り、音楽番組プロデューサーということになる。オーケストラの依頼・選曲・編曲の注文を自分でしたりした。やがてテレビの開局が始まり、文化放送からフジテレビへ何人か異動があると聞いたすぎやま氏は真っ先に志願して、開局一年前からフジテレビへ移る。「テレビの時代がやってくる。音楽をやるならテレビだ」というすぎやま氏の読みだった。

 

☆テレビ時代の幕開け

すぎやま氏は言った。「全く新しいメディアでしたからね。ともかくいろんな個性的な人物がいましたね。文化放送から来てたり、ニッポン放送から来てたり、歌舞伎座からとか、落後界とか。サムライ集団でした」。すぎやま氏が最初に手掛けたのは「おとなの漫画」だった。もう一つ、「ザ・ヒットパレード」も手掛け、テーマ音楽を自分で作曲する。すぎやま氏のディレクターとしてのエピソードの一つにスタジオでのカメラの使い方というのがある。狭いスタジオをカメラにワイドレンズをつけて数倍の広さに見せていたというのである。

 

☆作曲家へ

すぎやま氏はテレビのディレクターをしながら、CMソングを中心に作曲活動も活発になっていった。やがてGS(グループサウンズ)全盛時代になり、すぎやま氏にレコード会社から注文がくるようになる。そしてヒット曲が出始める。ザ・タイガースに及ぶと「ザ・ヒットパレード」にどんどん登場するようになる。“自分の曲を取り上げすぎる”とか言われて、リクエストの順位を下げたりしていた。その上、著作権使用料収入がからんできて、だんだんフジテレビの社員として辻つまが合わなくなってきた。しばらくは契約ディレクターとして、作曲家との二足のワラジを履いていたが、やがて独立した作曲家として生きていこうという大きな決断をして、退社する。退社した時に役職はなかった。

 

☆妻

妻、椙山之子(ゆきこ)氏はすぎやま氏の11歳年下。タイガースのレコーディングに来ていたビオラ奏者。芸大弦楽科出身。すぎやま氏の音楽的なパートナーでもある。

 

☆ザ・タイガース名付け親

大阪から上京してきたタイガースの前身たちに、名を付けたのは、すぎやま氏である。すぎやま氏は、「スタジオでオーディションを見た時、彼らはとっても動きが敏捷で、まさに"虎"のイメージだった。それにその頃は、グループに動物や生き物の名前が多く流行るというのがあって、また大阪なら"阪神タイガース"」というのが命名の根拠と言う。同じパターンで他に“レオ・ビーツ”も名付けている。福岡出身のバンドということで西鉄ライオンズにちなんで付けた。

 

☆ザ・タイガースのヒット曲

すぎやま氏はこう語ったことがある。「タイガースの一連の曲は、僕なりの組曲だった」と。「第一楽章【僕のマリー】アンダンテ、第二楽章【シーサイド・バウンド】アレグロ・ビバーチェ、第三楽章【モナリザの微笑】アンダンテ、第四楽章【君だけに愛を】レント・プレスト、第五楽章【花の首飾り】アダージョ」、そうたとえ、「目先の一曲じゃなかった」と言っている。