GSブームの仕掛人に聞く

 

☆ザ・ヒットパレード

柴田「グループサウンズがワーッと出てきて盛り上がった頃に、すぎやまさんはテレビのプロデューサーと作曲家を両方やっていらっしゃったんですよね。GSのああいった現象に対して、作曲家として興味のもち方とテレビのプロデューサーとしての興味のもち方に違いってありました?」

すぎやま「両方いっしょくたですね。分離できるもんじゃないと思います。しかもテレビのディレクターやってたから関心をもつのは自然のなりゆきだったと思います。とくに“ザ・ヒットパレード”やってましたしね。“ザ・ヒットパレード”がスタートした1958年ていうのがちょうどロカビリーの全盛時代でね、ロカビリー三人男が活躍してた頃ですよね。」

柴田「平尾昌晃、ミッキーカーチス、山下敬二郎・・・・・。」

すぎやま「それからその番組がスタートした頃から、僕自身、すでに歌謡曲よりはね、ポップスに興味があったからね。“ザ・ヒットパレード”というのは、ポップスのヒットパレードだったんですよね。歌謡曲・・・・いわゆる演歌みたいなのは一切取り上げない番組でしたからね。そのロカビリーがそのまま、GSにつながっていったと思うんですよ。ただ、一番大きな違いは、それまでのロカビリーのブ−ムから始まったポップスのヒットパレードというのは外国曲が中心で日本で出るレコードというのは殆どが、カバーレコードだったんですよ、日本語の。それが国産の曲に変わっていったというのが、GSブームのいちばん大きな部分じゃないですかね。だから日本で作られる曲は歌謡曲、ポップスは外国曲と相場が決まっていたものが、日本でもポップス曲が作られるようになった。その一番のはしりかな、やっぱり・・・。」

柴田「ええ、はしりだったと思いますよ。」

すぎやま「そのはしりの一番最初が宮川泰がザ・ピーナッツにかいた“ふりむかないで”。その他の国産ポップスっていうとね、僕の“涙のギター”・・・・あとから尾藤イサオが歌詞つけて歌ったりしたけれど、最初はスプートニクスの演奏とかブルー・ジーンズの演奏でヒットしたんだよ。だから国産のインストゥルメンタルなヒット曲としては、ほぼはしりに近いんじゃないかな。それまでは歌謡曲の世界ではインストゥルメンタルな曲のヒットなんて考えられなかったからね。それからあとは、浜クラさん(浜口庫之介)が“バラが咲いた”っていうヒット曲を出した。これが言うなれば和製フォークのヒット曲のはしりに近いかな。だから、グループサウンズが台頭する下地というのはそのへんから出てきたんだと思う。」

柴田「そのへんで出てきたというよりも、テレビのディレクターとして、作っていったという部分が多分にあるんじゃないかな、という気がするんですけど。“ザ・ヒットパレード”なんかでね、ピーナッツなどが向こうのカバーレコード歌ったりして・・・・。」

すぎやま「いや、それはね、いったりきたりだと思うのね。そりゃ、テレビも相当に社会的影響力をもっていると思うけど。たとえばテレビとレコード会社が手を握ってだね、勝手に名前を作ってブーム風のものに仕上げてギャーギャー騒いでもね、殆ど空振りですよ。やっぱり世の中がそっちへ進んでいかなきゃできませんよ、そう簡単には・・・。ただね、バックアップはできると思う。それがひとつの形となってできたのが、当時の“ザ・スパークショー”みたいな番組ね。それから“ザ・ヒットパレード”。最初の頃のレギュラーはスカイライナーズとシックス・ジョーズだったんですよ。でもそのうち、いちはやくシックス・ジョーズをブルー・コメッツにチェンジしたんです。だからまだ“青い瞳”だとか“ブルー・シャトウ”なんかが出るはるか前に世の中の流れを敏感に感じとって、時代は変わってるぞ〜、みたいな感じでパッと、レギュラーバンドをチェンジしたってことは大きい意味をもっていましたよね。そのブルー・コメッツっていうのはね、当時僕が六本木で“野獣会”ってグループを主催していましてね。その会の一番時代の先端をいっているような女の子が、「おもしろいバンドがあるから、一回見ないか」って言うんで、浅草のなんかへんなところに出ているのを追っかけてね、見てね、それでスカウトしてきたグループなんだ。」

柴田「そのへんのなんていうかジャーナリスティックな意味での流行感覚みたいなものを敏感に番組づくりの中に反映させていかれたみたいな部分があるわけですよね。ではなぜ、"次はグループでやるものがいけるぞ!!"みたいなことをすぎやまさんはテレビ・プロデューサーとして、ハッと思われたんですか。」

すぎやま「それはね、六本木の遊び人たち集めた“野獣会”の若いコたちと一緒に踊りに行ったりなんだりして遊んでた、その彼らの踊りからきてんのね。やっぱり世の中のリズムの流行っていうのは踊りと切っても切れないわけですよ。踊りと音楽---ポップスの流行っていうのは、不可欠のものなんだよね。その踊りが変化してきたわけ。ドドンパが一時はやっていたけれど、ドドンパまではフルバンドの音楽でね、そのうちモンキーダンスに変わってきた。それから次はツイストだ。これはフルバンドの音楽じゃない、今までのジャズの音楽じゃない・・・ってわけで、それらの踊りから敏感に感じ取ったわけよね。それにもうひとつ、メロディだけの音楽ではなかったわけ。リズムとハーモニーを一緒にエンジョイしてるのね。これはやっぱりグループしかないってんで、ブルー・コメッツをスカウトしてきたわけ。そして、井上忠夫が作った“青い瞳”が大変おもしろいと思ったんで、“ザ・ヒットパレード”で紹介してみたら、大きな反響があったんだよね。」

柴田「その当時の社会状況・・・若者の文化意識みたいなものが明らかに以前とは違ってきたというようなところもあったんでしょうね。ファッションに関しても、実際変わりましたし、雑誌にしても当時“平凡パンチ”が出たりして、でもそのころはすでにすぎやまさんは、“若者”という時代を過ぎていらしたわけですよね。若いうちは、若い時代というその中でただ楽しむということしか考えられないけれども、ひとつ世代が上だという部分で今度は大人の見方からどう流行をつくっていこうか・・・みたいなことを考えて、ひとつの流れみたいなものをつくったみたいなところがあったんでしょうか。」

すぎやま「そう、言ってみれば今はやりのシティ・ボーイとかシティ・ギャルと言われる連中、六本木で夜遅くまで遊んだり、車乗りまわしたり、そういった若者たちがまだいなかった頃の当時は、やはり“野獣会”あたりがそのはしりだったと思うんだよね。そしてそのはしりの連中あたりの需要にこたえるものとして“平凡パンチ”みたいなものができてきたんだと思うし。そこらへんの子たちの需要にこたえられるものが絶対に必要になってくるな・・・というのは膚で感じてましたね。」

 

☆テレビとGSブーム

柴田「たとえばGSをテレビに出演させるといった場合に、今まででしたらバック・バンドがありましたよね。ピーナッツならピーナッツが歌って、まわりは演奏しているだけみたいなかたちがあったわけですよね。そうなると画をとるという意味では歌い手であるピーナッツだけパッととっている部分ていうのはけっこう多いわけですよね。それがGSとなると、団体でとるみたいな部分で、ディレクターとしての番組のつくり方の違いはありましたか?」

すぎやま「全然変わらないよ。ピーナッツが歌っている時でもね、バックのスカイライナーズは踊っていましたし・・・。」

柴田「そうそう、その振りがまたおかしかったんだ。」

すぎやま「それに世間がやっとGSの時代がきたぞって騒ぎだした頃には、こっちはとっくの昔にブルー・コメッツを番組のレギュラーにしていたから。だからそういった点では何も変わりはなかったですね。ただ一番びっくりしたのは、ブルー・コメッツっていうのは最初鹿内タケシとか尾藤イサオの半ばバック・バンドみたいなところがあったのに、アッと気がついた時には鹿内や尾藤たちよりもブルー・コメッツのメンバーの方にサインが集中するようになってたんだよね。ソロシンガーを素通りしてバック・バンドの方に行っちゃうのね・・・。そんな具合に“ザ・ヒットパレード”にはGSブーム以前からそういった現象があったし、ブルー・ジーンズなんかも出てたでしょ。だからGSブームになった頃は、GSの番組になっちゃってたって感じね。」

柴田「なっちゃってた、と言うよりも、GSブームを先につくったみたいな部分があるわけでしょう。社会の動きとか色々な部分を膚で感じて・・・。」

すぎやま「つくったって言うよりもさ、ブームを敏感に感じ取って先取りしたってことだね。」

柴田「そう先取り。」

すぎやま「“笛吹けど人は踊らず”って言うでしょ。だからマスコミの強大な力をもってすればなんでもできる、という錯覚を起こしがちだけどね、僕は決してそうじゃないと思う。社会に下地やブームの芽がないところでいくら笛吹いたって人は踊らない、絶対に。」

柴田「そこらへんを敏感に感じられるか感じられないかみたいなところに製作者のセンスの差が出てくるんですよね。」

 

☆ギターが主役

柴田「サウンド的に言いまして和製ポップスと言われたものと、グループサウンズとはやっぱり違ってきたな、って感じられる点はありますか。」

すぎやま「サウンド的大きな変化はね、おそらくギターが主役になってきたことでしょう。“ふりむかないで”あたりは和製ポップスではあるけれど、ギターが主役ではなかった。ところが“涙のギター”、“青い瞳”あたりになると、サウンド的な主役はあくまでもギターなんだな。」

柴田「ギターというのは手軽な楽器ですよね。音楽を聞く側から自分でやる人口がガガッと増えたということはありましたか?」

すぎやま「それは確かにありましたね。それまでの日本の大衆楽器というのはね、ハーモニカだったんですよ。一番手軽でね・・・。でもハーモニカっていうのはメロディだけ、一緒にコードを吹いてもフーっと吹けばドミソだし、吸えばレファラかもしくはシレファになっちゃってもうひどいもんだよね。だからハーモニカ時代というのは、メロディは吹けたけど、コード音痴ばかりだった。コード感覚というものがなかったのね。そのハーモニカという大衆楽器からウクレレ、もしくはギターに大衆楽器が変化することによってコード感覚、ハーモニー感覚っていうのが人々の間にできてきたんだよね。これが音楽上の一番大きな変化だよね。それから世界的なスケール、見地から考えた場合、それまでのポピュラー・ミュージックの主流はジャズだったんだよね。ジャズがデキシーから始まってだんだん複雑になってモダンジャズになって音楽そのものが縦に成長していったんだよね。ドミソだったのがドミソシになり、ドミソシレファになり、ドミソシレファラになり、サーティーンズになって音をどんどん縦に重ねていく“こり方”をするようになった。だけども横の流れは四度進行----基本のまんま。つまり、音の進行のし具合での“こり方”っていうのはあまりなかったんですよ。そこにあのビートルズが現れて、それまでフルバンドおよびコンボの大衆音楽をギター音楽に変えちゃったんだと思う。ビートルズによってギターが主役になって、しかもギターという楽器自体がフルバンドと違って、性質上音をサーティーンズまでやたら重ねられる楽器じゃないでしょう。つまり、ビートルズがやった大きな業績というのはポピュラー・ミュージックの世界で音楽の革命を音の横の流れで成し遂げたということだよね。ハーモニーの横の流れ・・・それは音の横の流れを重視する、というクラシック音楽の姿勢でもあるわけ。そのクラシック音楽的な横の流れをポピュラー・ミュージックにもち込むという作業をビートルズがやってのけたということは、やっぱり彼らがヨーロッパ人だったからだろうな。そこにアメリカからではない、ヨーロッパから革命が起きたという必然性があったんだよね。クラシック音楽の伝統が根付いているところから出てきたということね。だから一番最初のビートルズのヒット曲“プリーズ・プリーズ・ミー”にしても何がおもしろいかって言うと、コードの縦の重ねよりは“旋律を歌う”というか、旋律が下がってくるのに対して上のパートが“旋律を歌う”という同じ音をひっぱってて、音のひとつの“あら”みたいなものをおりなしている点なんだよね。それから“イエスタディ”にしても、それまでのジャズの複雑な縦の重ねをやっているわけじゃなくて、音の横の流れのおもしろさがある。旋律に対するベースがどういうふうにおりていくか・・・あの曲はベースの進行も非常に大事なファクターでしょう。それまでのアメリカのジャズでは考えられなかったおもしろさですよ。ベースの進行のおもしろさ----それがある種グループサウンズの原点だったんですよ。日本のGSもそういったビートルズという世界的なバックがあってできたんだと思いますよ。」

柴田「GSやってたみなさんに聞くと、だいたいそのへんの部分を言いますよね。あともうひとつ大きな要素をもっている点は、電気楽器になったっていうことではないでしょうか。たとえば極端に言ってしまえば、ひとつのギターの音だけでオーケストラよりでかい音が出せるみたいな・・・。」

すぎやま「それはありますね。」

柴田「そういった意味では、ベンチャーズなんかもビートルズと同じように、日本においては大きな影響を与えたのではないでしょうか。」

すぎやま「与えましたね。ベンチャーズがあれだけ日本に影響を与えることができたのはね、ベンチャーズが音楽的に内容的にチャチだったからですよ。上等すぎたら逆に影響与えられなかったと思うよ。なにしろそれまでは大衆楽器がハーモニカだった国だからね。あのベンチャーズ程度のハーモニーの流れ、あの程度のものだから影響を与えることができたんだと思うね。それとベンチャーズ、むこうでは大したアーティストじゃなかったから、日本じゃ売れるぞっていうんで日本の歌謡曲というものを非常に敏感に感じ取ったうえで、ギター音楽のポップス的感覚と日本の歌謡曲的な感覚を取り入れてうまくミックスしたでしょう。そこらへんの彼らの賢さと言うか利口さと言うかね・・・。」

 

☆ロックとクラシック

柴田「エレキギターを弾く----やっぱりそれがカッコイイってんで当時の若者はみんな真似しましたよね。」

すぎやま「すごくわかりやすいはったりだよね、ベンチャーズのジャカジャカジャカジャカとのる真似ね。だけど、世界的なスケールで見た場合、ポップスの大きな改革っていうのはギターではなくて、ビートルズが殆どすべてのもとをつくったと言えるんじゃないかな。言ってみればある種のバッハですよね、現代の・・・・。だから今の世界中のポップス・グループっていうのは、ビートルズのやったことのどこか一部分を発展させているだけだ、と言ってもいいんじゃないかな。勿論、ベンチャーズもビ−トルズのある部分をある程度うまく日本的にアレンジしたものであると思う。さらにビートルズから始まってGSが成し遂げたものっていうとね、ギター・・・電気楽器そのものだけでなく、それまでジャズなんかでは使われなかった弦楽器を使ったということなんだよね。つまりある種ポピュラー音楽のサウンドなり音の進行をクラシック音楽に一歩近づけたわけだ。“イエスタディ”にしても“ミッシェル”にしても、ビートルズはストリング・カルテットを使っているでしょう。あれが大きな影響を与えてる。そのおかげでそれまではポピュラーと言うとフルバンドだけで伴奏されていたものが相当大幅に弦楽器を使うようになりましたよね。これも大きな改革のひとつだと思うよ。だからエレキ楽器ばかりに目を奪われがちだけどそれだけでは本質を見失っていると僕は思うよ。だからベンチャーズの影響ではない、弦楽器的なポピュラー・ミュージックを僕はつくってみたかったわけ。“モナリザの微笑”とか“花の首飾り”とか“落葉の物語”といったタイガースの一連のヒット曲はそこらへんのところからつくっているんだよね。電気楽器的というより弦楽器的でしょう?音の横の流れもクラシック音楽的でしょう?それまであった全くスウィング奏者をベースにおいたジャズというものは弦楽器っていうのがとってものりにくいわけ、クラシックとあまりにもかけ離れているから。ところがロック・ミュージックとかGSの音楽はね、クラシックの奏者でも楽にのれる、演奏しやすいんだよね。」

柴田「クラシックでビートルズの曲を取り上げてやってますものね。」

すぎやま「そう、演奏できるのね。実際にスタジオでやらせてみてもね、スウィングはヘタですけど、ロックやらせるとうまいですよ。だからGSの功績のひとつに、ポピュラー音楽をクラシック音楽に一歩近づけたという大きな面があるんですよ。」

 

☆歌と言葉

柴田「僕自身の考えとしては、最初みんな電気楽器のある意味では快感というか、シビレみたいなものに引き寄せられていって、それからビートルズのやっているのを見たりとか、歌詞の訳を読んだりして、この人たちも僕らが言いたかったことを言ってるんだな、みたいなところから出発してGSはじめたのかな・・・みたいなことを思ってるわけなんだけど・・・。」

すぎやま「うーん、GSやってた人たちはね、そうかもしれないけど、一般のお客は英語わかんないと思うよ。ビートルズの歌聞いたってね、言葉が胸にしみるほど英語が達者な人めったにいません。言葉は関係ないね、そういった意味では・・・。」

柴田「でも日本のレコードっていうのは歌詞カード入ってるでしょう。アメリカなんかはそんなの入ってないのが圧倒的に多いでしょう。そういった意味では、日本人っていうのはそういうものを大切にするところがあってたぶん聞いている時にはサウンドとしてしか英語の歌をとらえていないけれど、帰ってから何を言わんとしているのだろうと辞書を引いて調べてみたりなんてことがあるとか・・・。」

すぎやま「いや、それは柴田さんの思いこみだと思うよ。」

柴田「そうですかね。」

すぎやま「うん、たとえば今ディスコなんかではやっている曲があるでしょう。でもこの歌はどういう意味の歌なのか、なんて一般の客に聞いても殆ど答えられる人いないと思う。やっぱり、メロディとハーモニーとリズムが主だと思うよ。」

 

☆ポピュラー音楽革命

柴田「GSが出てくるまでの日本のポピュラー音楽業界についてのお話をちょっと・・・。」

すぎやま「その頃までのポピュラー音楽界っていうのは国産のポピュラー音楽をつくっていた世代そのものが年寄りの古い世代だったために、そのつくり方自体にもハーモニー感覚がないわけ。だから演歌みたいな歌謡曲しかできなかったわけだ。でもハーモニー感のないメロディ、ハーモニー感のないポピュラー音楽・・・歌謡曲では絶対飽き足りなくなってしまうわけ、つまらないんだよね。そうなると洋盤聴くしかない。何か欲求不満なんだよね。そんな風に需要があるけど供給がないところへGSがパッと出てきたわけ。これはもう待ってました!という感じ、だからとっくに下地はできていたと思うんだよね。要するに需要はあるけど供給がなかったんだから・・・。」

柴田「その頃はどうだったんですか、すぎやまさんがどんどん作曲をされ始めた頃は、フリーの作曲家がけっこう生まれましたよね。その以前はレコード会社おかかえという専属の作詞・作曲家たちだけでつくってた。音楽情況っていうのは明らかにつくり手側から変わっていってる面がありますよね。」

すぎやま「それは作り手側が変わったというよりも、受け入れ側がそういうものを求めたんですよね。さっき言った需要があったんですよ。」

柴田「だけどレコード会社とかメーカーサイドがそれに気がつかなかったという部分があったんでは。」

すぎやま「そうですね、あとから追っかけたんだよね。」

柴田「逆に、テレビやラジオは向こうのものをどんどん流せるし、ということがあって・・・。」

すぎやま「そうそう。」

柴田「先に番組で紹介して先取りして・・・。」

すぎやま「その反響に驚いて、レコード会社が慌てて発表したってことはありましたよね。最初のうちフリーの作家っていうのは異端者扱いされていたんです。専属の作家達が目の仇にしてね。」

柴田「そういった意味でも日本のポピュラー音楽、流行歌、演歌を含めての音楽業界のひとつの革命だったような気がするんですよね。」

すぎやま「大革命だよね。それ以後とにかくポピュラー音楽はとにかくリズムとハーモニーがあるようになりましてね。」

 

☆消えたGS

柴田「ところでグループサウンズっていうのはワーッと出てきて二年半か三年くらい続いたかと思ったら、70年代になった途端にアッという間になくなってしまったでしょう。それも全部なくなってしまったみたいな部分があるでしょう。その現象、非常に不思議だと思うんですよね。それ以前に和製ポップスをやっていた人たちの中には、勿論消えていった人もいるけれど、残ってた人もいますよね。だけどグループサウンズっていうのはアッという間にまるっきり真白になったって言うか無になってしまったでしょう。あれは何なんですかね。」

すぎやま「結局ね、虎は死んでも皮残すじゃない。それと同じで、グループサウンズのブームは終わってしまったけれど、それ以後の日本のポピュラー音楽にリズムとハーモニーを残したよね。それ以後歌謡曲は演歌ですらリズムがあり、ハーモニーがあるようになったからね。そういった意味ではGSの残したものは大きいと思う。でも実際の話、グループサウンズが全部つぶれちゃった原因は二つあると思うんです。ひとつは乱立と過当競争ね。もうグループサウンズが売れるっていうんでレコード会社がなんでもかんでも、それこそドヘタまでレコード出してね。そのうえ、粗製濫造。ちゃんとした曲じゃ間に合わないからひどい曲に至るまで大粗製濫造をやったでしょう。なんぼなんでもあんまりひどいものまでいっぱい出てきたから全部共倒れ。それからもうひとつ、レコード会社の専属作家と演歌勢力の巻き返しがありますよね。これじゃ自分たちの職場が減るっていうんであらゆる方面、ジャーナリストにまで働きかけて彼らが大巻き返しをやったでしょう。とにかくグループサウンズっていうのは音楽的に程度の低いもんだ、東海林太郎はあんなに真面目にちゃんと歌っている、正しい歌はどうのこうのとメチャクチャに叩いたんですよ。そしてジャーナリストがそれに全部乗っかったからね。内容的にはそれまでの演歌よりはるかに高度なものだったのに演奏技術が低かったということもあるしね。しかも一般の人やジャーナリストは、演奏のうまいヘタと、内容が高度かチャチかという区別つくだけの力もってないから演奏がヘタ=(イコール)音楽的にも低い、になっちゃったんだよね。とにかくジャーナリストも一斉に尻馬に乗って叩いたんだよね。しかもさらに風俗的な叩かれ方までしたんだよね。不良化の原因になるということで全国のPTAからなにから総動員して叩きまくったのね。過剰供給のうえに、それらがからんでつぶれてしまったんだよね。それに経営的にも息詰まっちゃったんだよね、過当競争になっちゃったから。」

 

☆GSとニュー・ミュージック

柴田「僕がたまたま音楽の仕事や作詞なんかをやり始めたのは、フォークやロックの人たちがね、“ニュー・ミュージック”という名前でメジャーに抱え込まれて主張をなくし、『ニュー・ミュージックって言ったって歌謡曲と同じじゃないか』という風になったころなんですけどね。その“ニューミュージック”の中で何年かやってみると、なんかポップスという意味では違うんじゃないかなあ、という部分がすごい出てきたんですよね。そこで『GSってもっとおもしろかったはずなんだよな、団体でやってても・・・』みたいなところからGSを聴き直してみるとね、ニュー・ミュージックの人たちとは違う何かがあったなーってすごい感じさせられたんですよね。ある意味ではニュー・ミュージックよりもパワーがあったんじゃないかな・・・・みたいなね。そんなところから70年代後半ていうのはGSと同じように、何でもかんでもニュー・ミュージックみたいな部分がありましたけれど、その情況と60年代後半のGS全盛の頃の情況とを作家という立場から冷静に比較された場合、どこが一番違いますか。」

すぎやま「音楽の内容が一番違うね。とにかく今のニュー・ミュージックっていうものはさ、GSがなかったらなかったんだよね、当然だね。GSがあったからニュー・ミュージックがあるんだよね。でもね、GS時代の曲には一般性があった。ところが今のニュー・ミュージックはいいんだけど、曲に一般性がないわけ。それはどういうところからきているかというと、GS時代の曲はプロがつくっていたわけ。だからその人個人が歌うためだけにつくられた曲ではなくて、一般楽曲としてつくられた曲だから言ってみれば誰でもが歌えるわけ。たとえばブルー・コメッツの“ブルー・シャトウ”って曲はブルコメが演奏してもいいし、他のグループが演奏して歌ってもさまになる。タイガースの曲でもそうね、曲としての一般性をもっている。歌っている本人がつくった曲じゃないから・・・。曲ができてそれから誰に歌わせようかというようなもんだからね。ところがニュー・ミュージックの時代から殆どシンガーソングライター----歌う本人が自分でつくるようになったでしょう、つまり、自分の歌い方のくせだとか特徴だとか、それらが最大限に生かせるようにさらに自分の音楽的な姿勢を最大限に生かせるような曲をつくっているわけでしょう。その点は大変におもしろいとは思うんだけど、一般性がないわけですよ。鍵と鍵穴の関係になっちゃってるのね。だから他の人が歌うと全くおもしろくもなんともないと・・・。そういった意味ではスペシャライズ、特殊化された曲なんだよね。」

柴田「ニュー・ミュージックの人たちは、たとえば一緒にグループ組んでやってて、そのあと分裂してはまた別のグループを組み直して・・・みたいな形で70年代を生き伸びてきた部分がけっこうあるでしょう。それなのにGSにはなぜそれができなかったんでしょう。」

すぎやま「それはね、何て言うかな、GSの時代まではプロダクションが主導権をもっていたから組み直したりなんかっていうのは難しかったのね。ところがニュー・ミュージックの人たちは、アーティスト本人が主導権そのものももっているから、自分たちで好きなようにやることができたのね。」

柴田「より個性が出しやすかったんですよね。」

すぎやま「うん、それにもうひとつ、大きな変化としては演奏技術が飛躍的に進んでますよね。GSの人たちはやはり、平均してヘタでしたよね、演奏が。今はみんな小さい時からギターやドラムいじりをしているから演奏技術はそれだけ進んでますよね。」

柴田「逆に言うと、演奏技術が進みすぎた部分で、さらに一般性をなくす原因になってはいませんか。」

すぎやま「それは違うんじゃないかな。素晴らしい技術をもっていたって、一般性のある演奏はできますよ。一般性のあるわかりやすい楽曲に素晴らしい演奏技術が生かされればそりゃすごいものができると思うけどね。大体音楽にはクラシックもポップスも境目はないと思うのね。全部ひっくるめて音楽はひとつだと思うんだよね。やっぱり一番大事なのはハートですよ。いい旋律、いいハーモニー、いいリズム・・・どれひとつとってもハートが一番ですよ。何て言うかな、ノーハートで歌手の社会的姿勢だけで売るものとか、ファッション----恰好ね、つまり見てくれだけで売るものではないわけだよね。それから“おれたちはこんな高度なカッコイイことやってるよ”とかいった要するにひけらかすようなものは長続きしないよね。やっぱり生き残るものは、ハートのあるものだよね。何て言ったって音楽は美しくなきゃー。」

 

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