☆TV初の音楽ランキング番組「ザ・ヒットパレード」          すぎやまこういち

 

 僕は、文化放送からフジテレビ開局と同時に移籍して、最初に手がけたのが“ザ・ヒットパレード”でした。“ザ・ヒットパレード”の基本はニュースなんです。僕はニュースが電波媒体の基本だという哲学をずっと持っていましたから、音楽番組を作るにあたってニュースになるものを作ろうと考えました。それで、今、どんな音楽が流行っているのか、これからどんな新しいタレントが出てくるのかということを視聴者に伝えるためにランキング形式にしたんです。

 また、ニュースを基本に置くことはタネ切れが絶対にないんです。数ある長寿番組の中でニュース番組ほど長寿な番組はないわけで、それはタネが永遠になくなることがないからでしょ。やっぱり番組を制作するからには息の長いものにしたいですからね。僕は“ザ・ヒットパレード”と同時期にクレイジー・キャッツの“おとなの漫画”も企画しましたが、この番組もその日の新聞記事をもとにしてコントで社会風刺をするニュース番組にしたんです。だから“ザ・ヒットパレード”も“おとなの漫画”もタネ切れを心配することなく10年以上も続けられたんです。

 “ザ・ヒットパレード”は開局したばかりのフジテレビ最初の、さらに日本テレビ界初の音楽ランキング番組でもあるんですが、企画の段階では編成部、大手広告代理店は大反対でした。当時ランキング形式の音楽番組はラジオにはありましたが、テレビではできないといわれていたんです。あれはレコードを回すからできるのであって、テレビで生演奏するなんて無理だ、という論理でね。しかし、僕は絶対できる自信がありました。それは編曲によって、どんな歌手の音やスタイルにも合わせられることを知っていましたからね。今では当たり前ですが、当時は誰もそのことに気づいていなかったんです。

 そして、そんな僕に理解を示してくれてやろうじゃないかとと言ってくれたのが、渡辺プロの社長だった故・渡辺晋さんでした。それで渡辺プロが番組製作を担当して、スタートから一年間、タレントのバック演奏は渡辺プロ所属のスマイリー小原とスカイライナーズ、渡辺晋とシックス・ジョーズだったのですが、彼らは無料でレギュラー出演してくれました。だから、晋さんのバックアップがあってこそ“ザ・ヒットパレード”は実現し、また、アレンジを担当した宮川泰さんが音楽番組としてレベルを上げてくれたから、成功したんです。

 また、音楽のニュース番組として成功させるためには、これから出てくる新しいアーティストの才能を発掘し紹介していくことも、大事な仕事の一つです。そこで番組のワンコーナーに新人タレントを紹介するコーナーを設けました。そうすると、芸能プロダクションの人たちが新人タレントを売り出そうとやって来るのですが、僕はプロデューサーとして、力量あるいいアーティストを紹介したいという意欲をもって番組を作っていましたから、まだ力量不足と思われるタレントの紹介は断っていました。そのことでは、芸能プロダクション側と大激論になったこともありました。

 番組を通じて、中尾ミエ、園まり、梓みちよ、森山加代子、ジェリー藤尾、ブルー・コメッツ、タイガースなどたくさんの歌手がデビューしました。印象に残っている歌手はやっぱりザ・ピーナッツですね。彼女たちは本当に歌が上手かった。それにどんな曲でも歌いこなせる柔軟性があったし、スターだけが放つ輝きがありました。スマイリー小原、雪村いづみ、伊東ゆかり、平尾昌章、といった人たちも一流でした。そんな一流のミュージシャンの放つエネルギーがあの番組を10年間も引っ張ってくれたのだと思います。

 だからこそ、“ザ・ヒットパレード”は日本の歌謡界をポップスの方向へシフトさせた大きな力になったのでしょうね。それまでは日本の歌謡界は演歌が主流で、ポップスという音楽は東京周辺、それも一部のひとたちしか知らなかったのを、テレビを通じて日本全国に広めましたからね。僕はテレビを通じてポップスというすばらしい音楽もあることを視聴者に伝えたかったし、それを理解してもらえたことは感慨深いですね。

 僕は数年前からオーケストラの作、編曲に力を入れていますが、それは今、ロックやポップスが主流になっている時代ですから、オーケストラの良さを伝えたいと思って頑張っているんです。クラシックのオーケストラの演奏は、料理にたとえればフランス料理のフルコース。ハンバーガーばかり食べている若者たちに、ごちそうも食べて(聴いて)、味(良さ)を覚えてほしいと思っています。いつの時代もそうですが、片寄った味ばかりではなく、もっといろんな味を知ることこそ、酸いも甘いも見極めた“通”の時代が来るわけですからね。      (談)

 

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