対談●ことばとメロディについて
千家和也VSすぎやまこういち
☆どこで“山”を作って全体の設計図を作るか
すぎやま「一つの歌を完成させるには、“詞”と“曲”がどうからみ合っていくかということがたいせつだと思うけれども、この章ではそのことも含めて、話を進めていきたいと思います。」
千家「僕の場合、さて詞を書くという時に、いきなり書きはじめるから行きずまる。書くな!、といっているわけです。
頭の中でまとまってから書け、あるいは『愛』なら『愛』という一つのことばが、『愛に』とか『愛を』という、ある種のフレーズになってから、初めてペンを執れ!インクを滴らせろ!といってますが、音の場合は、さあ曲を書こうと、いきなり初めの音を決めて<ド>なら<ド>を書いてしまったり、一つの音だけでなく、初めの部分は<ド・レ・ミ>とか、決めてしまってから作ったほうがいいのか、それとも頭の中である種のフレーズを作ってしまってから、曲づくりに入ったほうがいいのか。そういうところはどうなんでしょうか。」
すぎやま「僕の場合、一つの曲を作る時には、まず詞を読んで全体のイメージをつかんで、どこで“山”を作って、どこでどうして・・・・という全体の設計図を作ってから、メロディー作りに入っています。
頭からいきなり、パッ!パッ!パッ!と作ってということはないですね。
音楽的に形の整った、しっかりした音楽としての歌を作ろうと思ったら、やっぱり全体の設計図が必要ですね。
今のシンガーソングライターの作った歌、それからニューミュージックといわれる系統の歌の中には、全体の設計図を作ってからできたんではないだろう、と思われるものがたくさんあって、そういう曲もヒットしているわけですよね。頭からいきなり、設計なしに歌い出していって、本能のおもむくままに、しまいまで作ってしまって、でき上がっている曲。
だから、音楽的に形を見るとひじょうに不統一で、尻切れトンボみたいな歌だったり、かと思えば、おしまいばっかりみたいな歌だったり、そういう歌がずいぶんありますけど、それが逆に特徴になって、人に目立って、売れたりすることもあるので、一概にどちらが正しい、どうあるべきだということは、いいにくくなってきていますね。
だから、ヒット曲を作るという面だけにしぼっていえば、どちらがよいということはいえないですね。」
千家「僕は曲を作らないからわからないけれども、そのフレーズ、フレーズを、いかに上手につなげるかっていうことが、一つの曲を作る、みんなに受ける曲を作るっていうことにつながっていくと思うんですよね。
ワンフレーズっていうのか、4小節の中での勝負が、一番大事じゃないかって気がするんです。
今おっしゃった“全体の構成力”というものではないんじゃないかと思うんですが、違いますか。」
すぎやま「そう、だからさっきいったように、歌のメロディの場合は構成力がゼロでも、詞の頭からただ本能的に作っていった曲だとしても、それがヒットすることがあるっていうのは、“全体の構成力”じゃなくって、フレーズ・フレーズをいかにうまくつないでいくか・・・そういうことでしょうね。
どっか一箇所、アッ!というところがあれば、それでヒットするってこともあるし・・・。
もし自分が、音楽的により正しいきちんとした音楽としての歌を作ろうと思ったならば、設計図を大事にすることですね。」
☆詞が先にできた場合と曲が先にできた場合
千家「ということは、すぎやまさんの場合には、設計図を作るということが、曲を書きはじめる、あるいは書き上がった段階で、すでにある一種の詞が、彷彿として浮かんできていると考えてもいいんですか。」
すぎやま「それは、詞が先の場合と、曲が先の場合と2つあるんですけれども、詞が先の場合は、詞を読んで詞の内容をよく解釈し、詞の構造をよくつかんでから設計図を作り、それで曲を作っていくということになるけれども、曲が先の場合には、音楽自体の設計図を作っていきます。で、その設計図を作りながら、なんとなくぼんやりとだけど、こんな詞の世界かなということは、自然に想定するでしょうね。」
千家「とすると、作曲する人の立場としては、その浮かんだ詞の世界を、詞を書く人間に伝えるべきというか、伝えたほうがいいというか、結果としてですね、伝えないほうがいいのか、その辺のところはどうなんでしょうか。」
すぎやま「相手の作詞家の顔を見て考え、決めますね。
この人だったら、こっちが思っている詞の世界をまったく何もいわずに、ポン!と渡したほうがいいと思える作詞家の人と、こっちがはっきりと、こういう詞の世界でお願いしますよ、といったほうがいい作詞家の人と、2種類あります。
やっぱり、ひじょうに才能のあるベテランの場合は、何もいわずに渡すほうがいい場合が多いみたいですね。そうすると、こちらがむしろ考えていなかったものが出てきて、それがひじょうに素晴らしいということもあるでしょう。で、それは、その作詞家の持っている感受性の問題で、旋律に対する感受性をフルに発揮してもらいたい場合は、何もいわずに渡したほうがいいでしょう。」
千家「この本とペアになって出る、僕の作詞の本ですけど、その中で僕は、曲を先に書いてくださった場合、詞に関しては、『知らん!ガタガタ言うナ!』、詞を先に書いた場合は、『ああせい、こうせい』という風で、いろいろとお願いするという部分があるんで、今のことを聞いたんですけれど・・・。」
すぎやま「作詞家としてはどちらがやりいいですか。」
千家「僕個人は、いわれないほうがはるかにいい・・・。」
すぎやま「『いわれないほうがいい』というのは、どうして?」
千家「例えば、赤い色の曲であっても、そこに僕の白い色の詞がついてピンクになって、そのピンクが美しければ、そのどちらかが持っていた“赤い色”だけ“白い色”だけというよりは、むしろ幅があっていいような気がするんですけれどね。」
すぎやま「確かにそういうこともあるね。」
☆作曲家は『コンポーザー』でなければならないと思う
千家「違う話になりますけれども、僕が、演歌の方たちとおつき合いするときに、曲をテープに吹き込んでもらうことがよくあるんですけど、曲とメロディ譜、つまり楽譜とが違い、コードが違い、あとでアレンジャーの方が苦労なさってるんですけれど、作曲家の責任としてはプロの人はもちろんのこと、アマチュアが曲を作るとしても、その責任範囲で、少なくとも作った曲が正しく譜面に書ける、コードが正しくつけられるってことは、必要最低条件じゃないかと思うのですけれども、どうなんですか。あまりそれにこだわり過ぎるのもよくないですか。」
すぎやま「譜面が書ける、コードが正しくつけられるってこと。今、世の中は、それが最低必要条件ではなくなってきたと思います。
だから、オタマジャクシで、ちゃんと自分の書いた旋律を表わせる自信がなかったら、僕はむしろ書かないほうがいいと思う。かえって混乱するから・・・。だから自分が弾いて、歌ったカセットテープを届ければいいんじゃないかな。
この本は『作曲・初歩の初歩』ということになっているけれど、実際は『ソングライター入門』というもので、作曲家という職業を名のるんだったらば、今の千家さんのおっしゃったように、ちゃんと楽譜の読み書きもできて、ハーモニー進行も全部きちんとできて、対位法、オーケストレーション、全部できなきゃいけないと思う。
それ全部できるのが、僕は作曲家、コンポーザーというものだと思う。
コンポーザーっていう言葉は、コンポジションからきてるんでね、ものを構成する、音を構成する、だから、本のタイトルは、日本では便宜上『作曲初歩の初歩』となっていますが、メロディーを作ることも作曲といわれるから、だからそうなっているけれども、ソングライターであれば、千家さんのおっしゃったような、楽譜の読み書きが必ずしもできる必要はないと思いますよ。」
千家「それから、例えば『雨』という言葉がありますね。この言葉を作詞家がひら仮名で書いたとします。
で、このときに、声に出していえば、『あめ』というように、『あ』にポイントを置けば『雨』ですね。『あめ』というように、『め』にポイントを置けば、食べる『飴』ですね。この辺の判断、ただ単に『あめ』ってひら仮名で書いた場合、作曲家としては、先入観として体質的に、どちらをとるものなのですか---。つまり、素人にひら仮名で、『あめ』と書いて『あめがすき』という詞を書きますね。それで、これどうぞっていった場合に、体質的にどっちがとりやすいんですかね、一般的に。これ初歩的なんですけれど・・・。」
すぎやま「やっぱり普通、お天気の『雨』だね。
『飴が好き』っていうとね、何か、なんとか飴のコマーシャルソングだと思っちゃうからね。
そういったような言葉はね、僕はやっぱり漢字で書いてくれたほうがありがたいですね。」
☆レコードは1曲でも多く聴いたほうがいい
千家「楽器弾けないと駄目ですか。」
すぎやま「それは前の章でも書いたけれども、弾けたほうがいいですね。」
千家「弾けないとやっぱり駄目ですかね。」
すぎやま「いや、駄目っていうことじゃなくて、やっぱりこれから先歌を作っていくんだったら、ピアノかギターか、何かそういった種類のハーモニーの弾ける楽器ができれば、それにこしたことはないでしょう。」
千家「僕の本の中では、『貴方、両手なくってもいいんです。目が見えなくてもいいです。耳が聞こえなくてもいいです。歩けなくてもいいです。何もなくてもいい、ヘレン・ケラー以下でいい。ただ、彼女以上であってほしいのは、一つだけ、相手に自分の意思を伝えることができる人だったらば、詞を書けます。---』と書いてるんです。
だから、作曲をする人で楽器を弾けない人のために、何かあったら・・・と思いますけど。」
すぎやま「僕はだから、一番大事なのは楽器が弾けるよりも、何よりも、感受性だと思うわけ。美しい音楽、美しい旋律、美しい音の流れ、よりよい音の流れを感じる感受性、味´み´の能力、これが一番大事だと思う。」
千家「ということは、レコード聴けってことになるわけですね。」
すぎやま「そうですね、たくさん聴くことですね。」
千家「盗作の許容範囲、教えてください。この本を読んで曲を書かれる人たちっていうのは、ほとんどお思いになるんだろうけども、自分で書いて、最高傑作だと思っていて、だれかに聞いてもらうと『あれ、これどこかで聞いたよ』っていうことになって、そんな時は当然、その似てる曲と、聴きくらべていくと思うんですね。
日本の場合でいいんですけど、盗作っていうんですが、有意識、無意識にかかわらず、盗作となってしまうのは、どういうあたりの判断からなんですか。」
すぎやま「これは、ひじょうにむずかしい問題なんだけれども、旋律だけとり出した場合は、偶然同じ音列の組み合わせになるっていうことは、おおいにありうるんですよね。で、ことに演歌なんかの場合は、そういうリズムのパターンていうのは、ある種だいたい決まっているものがあるでしょう。そうすると、すでにある既製楽曲のつぎはぎみたいになるケースがひじょうに多いですね。
だから、盗作というのは、理屈で、オタマジャクシがいくつ並んでるということよりも、聞いた瞬間に、そのもとの曲に聞こえるかどうかといったあたりになるんじゃないですか。
だから、言葉、旋律ともに何か他の曲と同じ部分があると、これはやっぱり盗作になるんでしょうね。」
千家「盗作にならないためには、まわりの人に聞いてもらうのも一つの方法になりますね。」
すぎやま「そう、なるべく、いろんな音楽を知っている人に聞いてもらったほうがいいね。」
千家「僕の本の中で、さっきいった、とりあえず作ってから・・・ということになるんですけど、『まず真似しなさい、真似しなさい』ということをいってるんですよね。
既製の詞、今、世の中にある詞の一部を変えて、例えば『雨が降る』を『星が降る』にしなさいとか、『川は流れる』っていうのを『川は止まってる』にしてみることからまずはじめなさい。感受性のことにもつながるんでしょうけど、いきなり書けっていわれても、書けるものじゃないから、その詞のある点を真似しながら、ある一ヶ所だけ変えていって、自分の詞をそこからスタートさせなさいっていってるんですけどね。
今の盗作の問題にチョットひっかかるんですけどね、つまりある曲、その4小節なら4小節それをまったく、世の中に出してしまうってことじゃなくて、4小節なら4小節の続きを、そのままずっと自分で書いてみるって作業、どうなんですか、ぜんぜん役に立ちませんか。」
すぎやま「練習になりますよね。それで練習を積んでおいて、僕のいう感受性ってのはね、何か自分の生活で、ハッ!と感じる能力、神経の鋭さというか、そういったものを磨いといてほしいと思う。
なんでもいいから、『心の琴線に触れること』ってあるでしょう。人のいった一言とか、人のそぶりで、何か心に響いたり、残ったりするようなこと。音楽でも、やっぱりそれがあると思うんですよ。心の琴線に触れる気持ちの流れみたいなもの・・・。」
☆詞を書いて、作詞家へ持ち込むのはおよしなさい
千家「よくわかりました、そういうの。次に詞ができ、曲ができたというとき、僕の場合と対比していくと、僕は作詞家だから『詞を書いて作詞家のところへ持ち込むのはおよしなさい』って書いてるんです。
つまり、作詞家である以上、その詞が神秘的でもなければ、まか不思議な、ひじょうに魅力のあるものでもないっていうことを知りつくしているから、自分で自信のある詞ができたら、作曲家のところへ行きなさいっていうように書いていて・・・、作詞と作曲っていうのは、夫婦のような、ある種一体みたいなもんですから。
この辺どうなんでしょう。作曲の場合、自分でこの本読んでいい曲書き上げたっていうときに、僕は何か作曲家の先生のところへ持っていくよりは、作詞家のほうへ持ってったほうが、世に出る、あるいは形になるっていうスピードが、早いんじゃないかって思うんです。」
すぎやま「それはおおいにいえることだね。『こういうメロディーを作りました。こういう歌ができました。これだれかに歌わせて、レコードにしたいんですけど』っていう話を作曲家のところに持ってこられても、これはどうしようもないですね。
僕のところへいままできた人で、僕のもとでうまくいってるのは、そういうことじゃなしに『作曲家になりたい』『勉強したい』というのできた人で、才能のある人は、いろいろ教えたり面倒みたり、ずいぶんいますよ。
いい歌の旋律を作った場合、作詞家にみてもらうっていうのは、とってもいいことだと思いますね。
だけれども、作詞の勉強をしたいからといって、弟子入りしたいというのに、作曲家のところへくるのは、むずかしいかもしれないけど、極々まれにそういうケースもありますよ。昔、橋本淳が、作曲家の僕に弟子入りして、それで作詞家になっちゃったり。」
☆いいメロディーが浮かんだら、さっさと記録すること
千家「今度は、例えばメロディーが浮かんだ、そのメロディーっていうのは、すぐ録音するなり、書ける人はすぐ書くなりして、記録しておいたほうがいいものなんでしょうか。それとも浮かんだメロディーが、いいメロディー、素晴らしいメロディーだとしたら、人間というのはそういうのを、忘れにくいものなのだから、無理に記録して、それにこだわらないほうがいいのでしょうか。」
すぎやま「すぐ記録したほうがいいと思う。いいメロディーができたと思ったら、それをもとにいろいろ発展させていくわけだから、先を考えている間にフッ!と忘れちゃうことがよくありますよ。
いいメロディーができそうな時はね、弾き歌いでもなんでもいいから、どんどんカセットに入れちゃってね、あとで通してまとめ直すのが一番いいと思う。」
千家「じゃ、こういう時はどうしたらいいでしょう。
4小節メロディーができました。しばらくして、また4小節メロディーができました。この2つのメロディーがどうしてもつながらないんですけども、両方どうしても捨てがたい。どうしてもこれで1つの曲にしたいというとき。2つの曲をつなげる方法っていうのはあるのでしょうか。」
すぎやま「どうしてもうまくつながらない場合は、絶対2曲作ることですね。
1つ1つ別にそれを種にして・・・
無理につないだ曲っていうのは、絶対に流れが悪いし、いろいろなテクニックを使って無理につないでも、それはテクニックにしか過ぎないのであって、音楽の心、歌の心は出てこないんです。
だから、そういった場合は、2曲作ることをお薦めします。」
☆いきづまってしまったらまず遊びなさい
千家「詞なり、曲なりを作っていて、詞の場合は机の前に向かい、曲の方だとピアノの前に向かうとか、なんでもいいんですけれども、煮つまってしまった時は、一体どうすればいいんでしょう。」
すぎやま「『遊べ!』の一言。いきづまったままピアノの前で、考え込んでいてもイライラするだけで、どうせロクなことはない。
こんな時は、たとえ5分でもいいから、1回気分転換してから、向かい直したほうがいいですね。」
千家「すぎやまさんの場合はどうしてますか。僕はもう、その日は仕事やめちゃいますけど。」
すぎやま「僕は、ゲームをするとか、フラッと散歩に出かけます。」
千家「詞を先に渡された場合、乗りにくい言葉というのがあると思うんです。
僕の本の中では、『母音が、ずっと続けざまに並んでいくと、これは書いてるほうも気持ち悪いし、曲を書く人はもっと詰まってしまうんで、これは“詞としてはBランク”の詞だ』と書いてあるんです。
例えば、『粋に生きたい』。字で書くと“粋”っていう字があって“に生きたい”になるけど、発音すると『イィー、キィー、ニィーイィー、キィー』ってくるわけですよ。あんまり気持ちのいいものじゃないですよ。」
すぎやま「それはね、曲の種類によると思う。母音の続いてる詞は、まずリズム感が出てこない。リズム感出すには、子音が、ポン!ポン!とこないとね。
作詞家から詞をもらって、もしそれが、リズムを全面に出したい曲なのに、母音ばかりつながっている詞だったら、作詞家の先生に『ここ、なんとかならない』って、お願いするケースがありますけどね。
もしそれが、曲の種類のまったく違う、極端にいえば小唄であれば『粋に生きたい』って言葉は、凄くいいと思う。
小唄っていうのは、一音一音、全部のばすでしょ。
い〜〜 き〜〜 に〜〜
い〜〜 き〜〜 た〜〜 い〜〜
というように・・・。
小唄にしても、日本の民謡にしても、それ風の節をつくるんだったら、母音がつながっているのは、むしろプラスになるかもしれない。
曲のスタイルによるんじゃないかしら。」
☆ワンコーラスをどのくらいでまとめればいいか
千家「それから、曲を書いてどうしてもここに『アー!』っと入れたい、どうしても入れたくなった。それは、作詞家がすべきことか、作曲家がすべきことか、いつも悩みますけども、どうなんでしょう。」
.すぎやま「それはね、作詞家でも、作曲家でもなくて、プロデューサーや、ディレクターがいいだして入れるケースが多いですよ。
けれど、それはほんとはどっちの範囲なんだろう。僕もよくわからないけど、どうもそれやりたがるのは、ディレクターやプロデューサーに多い気がするね。
まったく必然性のないものであれば、入れるべきではないんだろうし。やっぱり、僕にはよくわかりません。」
千家「素人が曲を書きますね。ワンコーラスというと、どれ位でまとめることがいいんでしょう。人が聴いてて“ウン”というのは、どれ位の長さなんでしょう。なん小節位なんでしょう。」
すぎやま「最低8小節。一番短い曲ですね。世の中には、1コーラス8小節で12番まであるなんていう歌も、たまにありますよ。
少なくも、10番まである一番典型的な歌は数え唄で、『一つとせ・・』なんてはじまって、10まで数えていくでしょう。
長い曲は、なん小節とは一概にいえないですね。テンポの速い曲や、遅い曲があるから・・・。
だから、小節数ではなんともいえないけど、1コーラス、1分半位までがいいんじゃないかしら。1コーラス2分というと長いですね。ワンコーラスが、4、50秒〜1分半位の間に入っていればいいんじゃないかって気がします。」
☆応援歌、子守唄。それぞれに『らしさ』があるもの
千家「じゃ次に、いろいろな曲を書く時の心掛けについて。まず、応援歌を書く場合。」
すぎやま「僕がもし、応援歌を作るとすると、やっぱりある種の勇ましさ、力強さが必要だと思う。
だけれども、過去の応援歌のパターンというものがありますよね。その詞にしても、曲にしても、従来の応援歌のパターンをそのまま真似して、それこそ自分たちの父親、もっと先にさかのぼって、お爺さんの時代の応援歌にそっくりなものを作ったんでは、われわれが新しく作る意味がないと思う。
応援歌らしさを生かしながら、どうやって新しい感覚的なものをもり込むか、ということを考えて作るようにしますね。」
千家「子守唄は?」
すぎやま「それはね、やっぱりでき上がった旋律が、何か心の安らぎを与えるものであってほしいですね。けれども、世の中『五木の子守唄』もあれば、バードランドの子守唄『ララバイ・オブ・バード』みたいに、あれはジャズのスタンダードナンバーですけど、速いテンポで、アドリブが、ガ´ン´ガ´ン´入ってもの凄くにぎやかで、寝てる子も全部起きちゃうような子守唄もあるんで、いちがいにはいえないけれども、子守唄の機能としては、赤ん坊を寝かしつけながら、一定のテンポ、ひじょうにコンスタントなテンポで、肩なり背中なりを手のひらでたたいてやる、という作業があるわけです。
人間、眠れない時に、1から1,000までずっと数えていると、自然に寝ちゃうとかいうことがあるでしょう。
それと同じように、自然に、単純な一定のテンポと刺激を与えるということは、催眠効果があるということなんです。
ですから“テンポ”、音楽用語でいえば“アンダンテ”、アンダンテぐらいの一定のテンポが、ゆるやかに続くようなものを作ろうと思いますね。」
千家「サークルのテーマソングはどうでしょう。」
すぎやま「それは、そのサークル全員が歌えるやさしい曲であると同時に、そのサークルの性格、サークルの構成メンバーをよくみて考えます。」
☆悲劇のどん底で『歓喜の歌』を作曲したベートーベン
千家「いざ、作曲という時、悲しい時に、悲しい曲は書けるものですか。楽しい時に、楽しい曲って書けるものなんですか。」
すぎやま「どうなんだろう。一概にそうは、いえないと思う。」
千家「つまり詞のほうでいいますとね、『失恋しました』といって詞を書いてくる人が多いんですよね。これもちろん、プロとアマチュアの違いみたいのはあるんでしょうけど・・・。
『今、悲しいから、悲しい曲を書いておこう』みたいに、意識的にそうしたほうがいいものなんですか。『今日は、はずんで気持ちがよいから、ガ´ン´ガ´ン´そういう歌書いておこう』とか。
詞の精神としては逆だと言ったんですよ。寂しかったら、楽しいことをどうの、こうのって思い出せるから、楽しいことを書ける。楽しかったら、その楽しさの中で、ふっと自分に返る時があるんでね。逆じゃないかって書いたんですけども。
曲はどうなんですか。どっぷり浸りきるか、冷静につき放すか。」
すぎやま「どっぷりつかりきる人と、冷静につき放す人と、2タイプあるでしょうね。
クラシックの人の伝記を読むと、モーツァルトの実生活は、幸せじゃなかった頃もずいぶんあったらしい。しかし、不幸せのどん底でも、彼みたいに、すごく明るくて、爽やかな曲を書いてる人もいる。
ベートーベンが第9書いた時は、もう完全に耳が聞こえなくなってて、そのうえ人に凄く嫌われてたらしいけど、そんな悲劇のどん底で、第9の『歓喜の歌』なんて凄いものを書いてるしね。
逆にチャイコフスキーなんか、ある種の悲劇の人だけれども、その悲しい悲劇の中で、交響曲『悲愴』なんて、これまたもの凄く、悲劇そのままが、シンフォニーになったような曲を書いてる。これは精神状態とイコールだったかもしれないし、人それぞれで、こればかりはなんともいえないですね。」
千家「すぎやま先生本人は?」
すぎやま「僕自身、やっぱりなんともいえないですね。悲しい時に、悲しい曲書くときもあるし、悲しい時、うんと明るい曲書くこともあるし。
僕の場合は、悲しいとか、楽しいとかというより、機嫌のいい時のほうが、どんな曲でもすらすら書けるし、いい曲ができるようですね。」
千家「体調悪くてもですか。」
すぎやま「体調は、あんまり関係なくて、もう3日も寝てなくて、寝不足でフラフラなんていう時でも、機嫌が悪くなければ、いい曲がアッという間にできる時もあります。」
千家「僕と逆だな。機嫌がいいと、いろんなことしたくて、あれこれ気になって物事に集中しない。逆に機嫌が悪くて、最悪の時は、他のことをしようという気にならないから、詞を書くことに専念できて、いいのができることが多いから・・・・。」
すぎやま「僕は機嫌が悪くなると、何もする気がなくなってしまうわけ。」
千家「僕とまったく逆ですね。」
すぎやま「いろいろと話してきたけれど、結局、たいせつなのは、詞を書くにしても、曲を書くにしても、その人の“心”、そして“感受性”ということになりますね。そして、躊躇することなく、曲を作ってみること、詞を作ってみること。それが第一歩です。」。」